// 遙か裏舞台

ここは遙か3の時代背景を200年前まで遡って眺めてみようという、
このマニアなサイトの中でも超絶マニアックな歴史語りページです。
なんで200年前なのか。
源氏と平氏の因縁は、その頃から冷泉系・円融系の二つに割れた天皇家と、
それに関わることで勢力を伸ばしていた藤原摂関家(北家)の権力争いから
関係あるんじゃないかなーと、ふと思ったからでございます。
…と、ここまで読んで興味を覚えてくださった神子さまは続き↓をどうぞ!

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冷泉帝の皇太子…さて、誰にしましょうか?(黒策士属性(笑))


お話は遥か3の時代(1170〜80年代)から一気に200年遡ります。

967年。時の帝、村上天皇が42歳の若さで亡くなりました。
後に残された親王は3人。
18歳の憲平親王(後の冷泉帝)、
16歳の為平親王、
9歳の守平親王(後の円融帝)。
まぁ長男の憲平親王が冷泉帝として即位するのは良いとしても、
若すぎてまだ子供がいません。
さて皇太子はどうしようという問題が生まれるのでございます。
3人とも藤原(北家)師輔の娘、安子の息子ってところは条件一緒。
じゃあ皇太子は次男の為平親王で、ーーとなっていればまた歴史は違ってたんですが。

この為平親王には、既に村上天皇の兄弟・源高明(村上天皇の兄弟から出た村上源氏なので
清和天皇の兄弟から出た義経・頼朝の清和源氏とは関係ありません)の娘が嫁いでいたのです。
てことは。
もし為平親王が即位したら、摂政(幼い帝に代わって政治を行う役職)はきっと源高明。
娘を天皇に嫁がせ、次の天皇の祖父となることで摂政や関白(天皇の補佐役)となってきた
藤原北家が実権を失ってしまいます。
(ちなみに北家というのは藤原不比等の次男、房前(ふささき)から出た家系です。
 他に不比等の長男、武智麻呂(むちまろ)からは南家が、
 三男の宇合(うまかい)からは式家が出ています)
それを恐れた藤原北家は、一族こぞって協力し、三男の守平親王を皇太弟にしてしまいます。
そんなわけで長男・憲平親王が冷泉帝となり、次男を飛ばして三男・守平親王が皇太弟となりました。

これで冷泉帝から弟の守平親王に皇統が受け継がれ、守平親王が円融帝として即位したらその子に孫に…となってれば穏やかだったんですが。

冷泉帝即位・守平親王立太子の翌年(!)系図・派閥図
冷泉帝に息子が生まれます!
母はさっきも出てきた藤原師輔の孫娘・懐子。
ところが、皇太弟である守平親王は師輔よりも
師輔の兄・実頼&師輔の弟・師尹の方に縁が深かったんです。

そうなるとですね。

師輔(この時既に死亡してました;)の息子たち(伊尹・兼道・兼家)
冷泉帝の息子に帝位を継がせたい。

実頼&師尹(この二人はまだ生きてました)は

守平親王(後の円融帝)に帝位を継がせたい。

なんでかと言えば、
自分と縁の深い皇族が帝になれば、自分が摂政・関白になって実権を握れるのです。
そんな藤原北家の権力争いに巻き込まれ、

この後の帝位は冷泉系・円融系を行ったり来たりするようになってしまいます…。




安和の変…源氏二百年の因縁?

冷泉系・円融系を行き来するようになった帝位。
どんなふうに行ったり来たりだったかというと…。
1、冷泉帝/在位967-969(母:
師輔の娘
2、円融帝/在位969-984(母:師輔の娘)
3、花山帝/在位984-986(冷泉の息子/母:伊尹の娘
4、一条帝/在位986-1011(円融の息子/母:兼家の娘)
5、三条帝/在位1011-1016(冷泉の息子/母:
兼家の娘
6、後一条帝/在位1016-1036(円融の孫/母:道長の娘)<ここから藤原道長が権勢をふるって円融系に統一されます。
天皇家の血筋は行ったり来たりですが、必ず藤原摂関家トップの孫が帝位についているってとこがすごい…すごいよ摂関家…。

さて、我等が(?)源氏と平氏はどのようにこの冷泉系・円融系と関わりがあるのか。
最初に登場するのは、義経・頼朝のご先祖様源満仲(みなもとのみつなか)です。

冷泉帝に跡継ぎが生まれたのに、すでに皇太子は冷泉帝の弟・後の円融帝、守平親王と決まってしまっていた969年
もう一人の冷泉帝の弟・為平親王を帝位につけようというクーデターが目論まれている! という情報が時の右大臣・藤原師尹(円融派)の下にもたらされ、関白・藤原実頼(こちらも円融派)に届けられました。
さっそく、実行犯として橘繁延らが捕らえられましたが、その黒幕として為平親王の義父となっていた源高明の名前があがったのです。
これによって源高明は九州に左遷され、中央の政治は藤原摂関家が握ることになります。
また、帝も代替わりし、冷泉帝は退位して弟・円融帝が即位
そしてまだ11歳だった円融帝に息子はなく、冷泉帝の息子・師貞親王(後の花山帝)が皇太子になりました。
これを「安和の変」と申します。

ん? 源満仲が出て来ない?
ーー実は、クーデター情報を師尹の元に届けたのが、源満仲だったのです。
満仲は冷泉帝の後ろだてとなっていた藤原師輔と縁続き(おばあさんが姉妹)ということもあってか、息子二人を冷泉院に仕えさせるなど、ばりばりの冷泉派
その後も満仲の家系すなわち清和源氏は、三条帝を最後に帝位が円融系に移っても、ずっと冷泉派に属します
でも「安和の変」って冷泉帝から円融帝に帝位が移ってますよね?
なのに冷泉派の満仲が動いてるのはナゼ?
…それは冷泉・円融・花山の年齢に関係があったと思われます。


安和の変…それぞれの思惑

969年「安和の変」、これは摂関家(といっても上に兄貴がいるので氏長者ではナイ)藤原師尹が、源満仲を使って、有力な王族・源高明をはじめ政敵となる貴族を追い落とすために起こした政変である、と簡単に語られることが多いんですが。

上でも書いたとおり、師尹は円融派満仲は冷泉派
それなのに満仲が師尹のために動いたなんてヘンですよね。
満仲には別の思惑があったと思うのです。

「安和の変」の前年、満仲が仕える冷泉帝(18歳)に皇子が誕生しました。
しかし既に皇太子は冷泉帝の弟(後の円融帝)と決まっています。
このまま放っておいて冷泉帝から円融帝へ帝位が移るとき、円融帝に子供がいたら…?
せっかく生まれた冷泉帝の皇子が皇太子になれるかどうかわかりません。
「安和の変」の年に円融は11歳、とーぜん子供なんて居ません。
ならば、冷泉帝に退位してもらって円融帝が即位すれば…。
皇太子になれるような親王は冷泉帝の皇子しかいないわけです。

さて、当時の氏長者・実頼にくっつき、円融をバックアップしてた師尹だって策士です(たぶん)。
今、コトを起こして円融を帝にしても、皇太子の座は冷泉系に持ってかれるなんて気付いていたはず。
なのに何で円融の成長を待たず969年にコトを起こしたか。

まったく推測なんですけど、師尹が頼りにしていた実頼(当時関白)がもう69歳とかなーり高齢で、今、政敵・源高明を排除しとかないと手が出せなくなる、ていう焦りがあったんじゃないでしょうか。
実際、実頼は「安和の変」の翌年に亡くなってしまいます。
或は、もしかしたら師尹自身が、自分が病で先が短いことを知っていたのか…何と師尹は「安和の変」で右大臣から左大臣(源高明の左遷で空いたポスト)に昇進してすぐ、969年のうちに死亡してしまうのです。
権力って何なんでしょう…命と引き替えにするほどのものなのかなぁ…

ところで。
「安和の変」を機に2年間で譲位した冷泉帝は、歴史上、帝位についてから狂ったということになってるんですが。
上記のタイミングとか考えると…神子さまがた、如何お感じになられますか?
私が冷泉帝派の貴族・武士だったら、あなたの息子のために、狂ったフリして譲位しませんかとお耳にささやいちゃうなぁ…。
歴史にあることだからって、ホントウジャナイかも知れませんよ、ね…?

続きますが、今宵はここまでv

※予告(まだやるのか!)
冷泉帝、円融帝、冷泉の息子(花山帝)ときてなんで次がまた円融系の帝(一条帝)になったのか。
そして、冷泉系最後の帝となる三条帝へと帝位が移る中で、あの超有名人、藤原道長も登場します。
でもあくまでこのシリーズ(笑)は源平合戦の背景を裏側から覗いてみたいダケなので、あんまり道長のことは書きません(笑)
テストには出ないことばっかりだと思います…(^^;;