// 遙か裏舞台 十六夜記編

ここは遥か3・十六夜記の時代背景を綴った、
このマニアなサイトの中でも超絶マニアックな歴史語りページです。
十六夜の秀衝とか泰衝がとってもらぶりぃだったので彼等をもっと知りたくて、
これを機にえいやっと調べてみました。
興味を覚えてくださった神子さまは続き↓をどうぞ!

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奥州藤原氏…始まりからして実は源氏と関係が。


奥州藤原氏の始祖になったのは藤原清衝(きよひら)。
陸奥国亘理郡(宮城県南部、海岸沿いの1地方)の郡司の家系です。
伝承では、あの「平将門の乱(935-940)」を平定して関東に進出した、藤原北家出身藤原秀郷(ひでさと)の子孫と言われてます。
立証はできていないようですが、藤原秀郷は下野国(栃木県)を基地に、鎮守府将軍(朝廷が北方を平定するために、軍隊を組織できる役職)としてその後も北方の防衛に尽くしたので、その子孫が奥州に役職を与えられて土着化したっていうのは、有力な説だなぁと思います。

さて、なぜ藤原清衝が奥州に一大勢力圏を築いたのか。
これは奥州で起こった「前九年の役」「後三年の役」に関係があります。

前九年の役(1051-1063)」は、朝廷と対立した奥州の豪族・安倍氏を、鎮守府将軍となった清和源氏・源頼義(義経・頼朝のひい々々お祖父さん)が、同じく奥州の豪族・清原氏の力を借りて、滅ぼした戦です。
でも、源頼義が清原氏の力を借りる時に臣下の礼をとって参戦を依頼したからか、戦後、鎮守府将軍の地位は清原氏に渡ってしまいます。
一方、源頼義は伊予守(いよのかみ)を命じられ、全権を清原氏に託す形で奥州を離れることになりました。
源頼義が力をつけ過ぎるのを、朝廷が恐れたからかも、知れませんね。

さてこの時、もともとは清和源氏・源頼義の部下だったのに、安倍氏に味方して処罰された藤原経清(つねきよ)という奥州の豪族がいました。
「前九年の役」の途中で、帝の奥さん(中宮・彰子)の病気を治す祈祷を行うために、朝廷から安倍氏に恩赦がでて戦が中断されたことがあるんです。その時に藤原経清は安倍氏の娘を妻にしました。その縁なのか、あるいは
源頼義と藤原経清との間に何かがあったのか…。
ともかく、処罰された
藤原経清の奥さんと子供は清原氏が引き取り、この藤原氏の所領も清原氏の支配下に入ります。
はい、この子供が後の藤原清衝です。

さてその後、自分の所領+安倍氏+藤原氏の所領を支配下に置いて一大勢力となった清原氏に内乱が起こります。
後三年の役(1083-1087)」です。
清原氏の長男真衝(さねひら)、
引き取られて来た次男清衝(きよひら)、
引き取られて来た藤原経清の奥さんと清原氏の間に産まれた三男家衝(いえひら)との間での諍いでした。
これに、当時陸奥守(むつのかみ)となった清和源氏・源義家(よしいえ・上に出て来た頼義の息子)の助力を得て勝利した次男清衝が清原氏=奥州の覇権を手中にし、実の父親の「藤原」を名乗るようになったのが奥州藤原氏の始まりです。
この
清衝・義家連合軍が、三男家衝が立てこもった難攻不落の金沢柵(かなざわのさく)を兵糧攻めで落とした戦いは有名。
かなり激しい戦いだったようです…(;;)
ともかく奥州藤原氏は、源氏の手を借りて覇権の基礎を築いたことになりますよね。
平泉に拠点を構えた清衝は、金色堂で名高い中尊寺を建立し、ここから奥州藤原氏の仏教文化が花開きました。

なお、この内乱の平定に尽力した陸奥守・
源義家(よしいえ)ですが、義経・頼朝のひい々お祖父さんで、関東ではとても有名な武将です。
彼の代から平氏と源氏の対立の構図が準備されていくのですが…それはまた別のページでv

続くかどうかはまだ未定。
十六夜で泰衝に愛が芽生えたんですが、史実ではいいとこ少ないからなぁ泰衝…;;