// 上書き御免(源平+遙か年表)年表2:1171〜1179 ※別窓表示はこちら
源平時期の年表に「遙かなる時空の中で3」の設定をまぜてみようという試み。
2006年1月23日から7月18日まで独自に推測・調査して更新していましたが、
2006年10月4日に『メモリアルブック 完全設定資料集』に年表が掲載されたため、
公式発表に基づいて修正をして、更新停止。正式発表万歳vvv 待ってました!
※年表の月日は旧暦、★印は『メモリアルブック 完全設定資料集』による修正箇所です。学校の試験には使用禁止ですよ神子さまがた;;;
年表1:〜1170 年表2:1171〜1179 年表3:1180〜1181
西暦 |
年号 |
月日 |
できごと (清和源氏 桓武平氏 熊野関係 ほか 網掛けは遙か設定) |
九 |
弁 |
ヒ |
景 |
敦 |
朔 |
1171 |
嘉応3 | 01.22 |
南方に赤光あり。其勢車輪の如し。「百錬抄」 |
9 |
12 |
4 |
14 |
5 |
5 |
承安1 | 04.21 | 改元(嘉応→承安)天変により改元 | |||||||
11.23 |
亥刻頃、中宮御所高倉殿焼亡(放火の噂あり)「後清録記」 | ||||||||
12.14 | 平徳子、入内(高倉天皇) | ||||||||
12.17 |
八条・大宮炎上。六条院御堂焼失「百錬抄」 | ||||||||
1172 |
承安2 |
02.10 |
平徳子、中宮となる |
10 |
13 |
5 |
15 |
6 |
6 |
05.21 |
15日より大雨洪水。川辺の人家多く流失。平時忠以下この被害に遭う「百錬抄」 | ||||||||
06.25 |
戌刻頃、六角南、烏丸西焼亡。三条以南、市場以北町東西、三条室町西南角に及ぶ | ||||||||
08.07 |
湛増の従者、比叡衆徒を乱闘の上殺害し、検非違使庁に捕縛さる「玉葉」 |
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1173 |
承安3 | 04.12 |
午刻頃、法住寺北殿焼亡。平重盛消火にあたり、中廊下を壊させる。 | 11 |
14 |
6 |
16 |
7 |
7 |
05.09 |
連日の大雨により、鴨川洪水「玉葉」 | ||||||||
5月 | 文覚(遠藤盛遠)、後白河法皇と対立し伊豆に流される。(頼朝に挙兵を促す?) | ||||||||
06.25 |
興福寺衆徒、多武峰(妙楽寺)を焼き払う※ | ||||||||
07.01 |
旱(ひでり)甚だしく、22社に奉幣し雨乞い祈願 | ||||||||
10.02 |
山の大衆(おそらく比叡山の一般衆徒)蜂起、奈良へ向かう「玉葉」 | ||||||||
10.29 |
南都衆徒蜂起「玉葉」 | ||||||||
11.04 |
南都衆徒の蜂起に対し、平重盛がその入京を防ぐ任に就く | ||||||||
ー | 源頼朝の子、千鶴丸誕生(母:平家派の伊東祐親の娘、八重姫) | ||||||||
ー |
二条天皇中宮・藤原育子(義父:藤原忠通)没(27歳) |
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ー |
九郎さん、義経が鞍馬寺に入ったと言われる11歳(尊卑分脈)になる…けど…? |
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1174
|
承安4 |
02.25 |
亥の終わり頃、皇嘉門院(崇徳中宮・藤原聖子)九条御所焼亡「百錬抄」 | 12 |
15 |
7 |
17 |
8 |
8 |
03.03 | 源義経、鞍馬を出て元服、奥州へ向かう(16歳)「平治物語」 | ||||||||
07.07 | 近日大旱の訴え諸国同じ「玉葉」(5,6月から旱っぽい記述あり) |
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9月 |
後白河法皇、法住寺にて今様合わせを開催 |
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ー |
平清盛、この頃大輪田泊に経ヶ島を完成させる(1175年説あり) |
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ー |
伊東祐親、平家の目を恐れて千鶴丸を殺害 | ||||||||
ー |
メモによると遙かの敦盛さんが熊野にいたのは8歳〜10歳頃。敦盛さん、8歳。 |
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1175 | 承安5 |
03.05 |
高倉天皇、疱瘡(天然痘)を病む。この頃、疱瘡天下に流行「百錬抄」 | 13 |
16 |
8 |
18 |
9 | 9 |
03.13 |
後白河法皇、紀伊国熊野に御幸「玉葉」 |
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06.04 |
雨、5日大雨洪水、6日大雨洪水、7日大雨(〜10日まで雨)「玉葉」 | ||||||||
安元1 |
07.28 | 改元(承安→安元)悪天候と疱瘡流行のため | |||||||
09.12 |
夜半から13日夜まで暴風雨 | ||||||||
10.10 |
右大臣家歌合開催 |
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10.11 |
後白河法皇、清盛の福原別業に御幸 | ||||||||
11.20 |
未の刻、東寺の禎喜僧正の法務壇所焼亡、閑院殿、押小路東、油小路西まで焼亡 | ||||||||
ー |
法然、比叡を降り「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽へ行けると「浄土宗」を開宗 |
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ー |
源義経、奥州平泉に到着? |
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1176
|
安元2 |
3~4月? |
九郎さんと弁慶さん平泉に到着。弁慶さんはこの後も京と平泉を行き来して平家と接触★ | 14 |
17 |
9 |
19 |
10 |
10 |
04.27 | 後白河法皇、延暦寺で天台戒を受ける「玉葉」 | ||||||||
07.04 |
夜半〜5日、近年まれにみるほどの大風大雨「玉葉」 | ||||||||
07.08 | 後白河法皇女御・皇太后平滋子没(35歳) | ||||||||
07.17 | 六条上皇没(13歳) | ||||||||
10.06 |
暁寅、熒惑太微に入る。※ 天下大乱、疫病、洪水などの大災を予告す「玉葉」 | ||||||||
10.17 |
熊野本宮経蔵が焼亡「百錬抄」 | ||||||||
11.26 |
平清盛、熊野に参詣「玉葉」 | ||||||||
ー |
清盛の熊野参詣とともに敦盛さん帰郷。★ | ||||||||
年末 | 叙位除目 後白河法皇、平家より院近臣を優先する |
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1177 |
安元3 |
01.24 |
平重盛、左近衛府大将になる 院近臣・藤原成親これを恨む | 15 |
18 |
10 |
20 |
11 |
11 |
2月 |
この頃、疱瘡流行「百錬抄」 | ||||||||
03.05 |
平重盛、内大臣になる(小松内府重盛) 藤原師長、太政大臣になる |
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3月 | 後白河法皇、福原へ最後の御幸、滋子追善の読経を行う | ||||||||
3月 |
この頃(?)涌泉寺事件:加賀目代藤原師経、涌泉寺僧と衝突・涌泉寺を焼く | ||||||||
04.06 |
二条東洞院より師長邸灰燼となる。皇太后宮御所、権中納言実綱邸焼亡「百錬抄」 | ||||||||
04.13 | 比叡衆徒強訴し、涌泉寺事件における加賀国司・藤原師高の責任を追求「玉葉」 |
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04.20 |
藤原師高、尾張配流 |
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04.28 | 安元の大火(太郎焼亡)※、内裏大極殿・八省焼失、焼死者数千人 | ||||||||
5月 |
藤原西光(師高の父)、法皇に訴え天台宗座主・明雲を伊豆に配流させる |
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05.23 |
比叡僧兵、近江国粟津で明雲を奪還「玉葉」 |
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05.29 |
後白河法皇、正式に比叡山延暦寺追討令下す | ||||||||
05.29 |
鹿ヶ谷の陰謀発覚 | ||||||||
6月 |
鹿ヶ谷事件 藤原成親備前国に配流される(後に殺害さる)後白河院の院政停止 |
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06.21 |
皇居八条殿が放火される「百錬抄」 | ||||||||
07.29 |
讃岐院と呼ばれていた崇徳上皇に「崇徳」の名が贈られる |
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治承1 |
08.04 |
改元(安元→治承):源頼朝は源平争乱中「治承」を使用する |
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09.13 |
後白河法皇、熊野御幸 | ||||||||
10.27 |
近畿大地震。東大寺の大鐘と大仏の螺髪が2つ落ちる。「玉葉」 | ||||||||
12.24 |
彗星出づ。「百錬抄」 | ||||||||
ー |
北条政子、伊豆目代の山木兼隆との縁談から逃げ、源頼朝の元へ押しかけ結婚 |
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1178 |
治承2 |
01.07 |
寅の刻、東に彗星が現れる「百錬抄」「玉葉」ほか |
16 |
19 |
11 |
21 |
12 |
12 |
2月 | 平重盛、内大臣辞職を願い出るも赦されず | ||||||||
03.05 |
後白河法皇、熊野御幸 | ||||||||
03.24 |
次郎焼亡 七条高倉西より朱雀南北5,60町に及ぶ。殆ど去年の災いに類す「玉葉」 | ||||||||
10.04 | 延暦寺の堂衆と学生(がくしょう)※、相争う。清盛は学生を支援? |
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11.12 | 安徳天皇(言仁:ときひと)誕生(父・高倉天皇、母・平徳子)、院政再開 | ||||||||
12.15 | 安徳天皇(言仁親王)立太子(1歳) 平宗盛、東宮大夫・平重盛、皇太子傳 | ||||||||
ー | 大姫誕生(治承3年説あり)(父・源頼朝、母・北条政子) |
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1179 |
治承3 |
1月 |
平重衝、左近衛府中将・平知盛、東宮権大夫 | 17 |
20 |
12 |
22 |
13 |
13 |
03.11 | 平重盛、病を理由に内大臣辞職 | ||||||||
3月 |
平重盛、熊野参詣「山槐記」 |
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04.06 |
守貞(もりさだ)親王誕生(父・高倉天皇、母・藤原殖子) 幼少期は知盛が育成 | ||||||||
05.14 | 清水寺、祇園社合戦。各々放火して堂塔房舎を焼く | ||||||||
05.25 |
平重盛、出家。浄蓮と称す | ||||||||
06.17 |
藤原基実に嫁ぎ、摂関家の大部分の所領を相続していた※平盛子、病没 | ||||||||
7月 |
平重盛、熊野参詣 | ||||||||
07.29 | 平重盛、病没(42歳) | ||||||||
08.23 |
〜24日、雨降り、洪水。26日〜28日、雨降り、洪水。「玉葉」 | ||||||||
10.09 | 後白河法皇、平重盛知行の越前国を嫡子惟盛に相続させず没収、院領とする | ||||||||
11.02 |
天台堂衆、西塔に討ち入り、堂舎五宇、房舎三十余宇を焼き払う「百錬抄」 | ||||||||
11.07 |
亥の刻、大地震比類なし「玉葉」(「百錬抄」「保暦間記」によると戌の刻) | ||||||||
11.14 |
※治承三年の政変 平清盛、福原から攻めのぼる | ||||||||
11.16 |
藤原摂関家基房(関白・氏長者)失脚、平盛子の継子基通、関白・氏長者になる | ||||||||
11.22 |
明雲、延暦寺座主に還職 |
※平盛子(もりこ・せいし)
清盛の三女。8歳で摂関家の氏長者・藤原基実に嫁ぎ、11歳で夫と死別。
後白河法皇の助けもあって(?)広大な摂関家所領を相続(実際には平清盛が手中に収めた)
盛子の死後、今度はその摂関家所領を後白河法皇が院領とし、清盛激怒。
治承三年の政変の一因となった。
※治承三年の政変
後白河院による相次ぐ平家所領の没収により対立を深めた清盛は、福原から兵六千で攻めのぼる。
基実の死後、氏長者を継いで後白河サイドについていた基実の弟・基房を失脚させて
盛子が育てた基実の嫡子・基通に氏長者を継がせたり、反平家の公卿39名を解官した。
この時、後に後白河院の寵姫となる高階栄子(丹後局)の夫、平業房も処罰され、拷問の後に死亡。
なお、後白河院は鳥羽北殿に移され、幽閉された。鹿ヶ谷事件以来、再び院政停止。
※興福寺と多武峰(妙楽寺)
興福寺は藤原氏の氏寺。しかし藤原氏の始祖、藤原鎌足の墓は多武峰(とうのみね)にあるという説があり、
妙楽寺は鎌足の墓の傍に建てられた御堂を寺の発祥とする。それ故か両寺の中は悪い。
10世紀末までには妙楽寺は天台宗に改宗したようで、比叡山延暦寺の末寺になった。
これも興福寺の反発を招いた一因とされている。
※熒惑太微に入る。
熒惑(けいごく)は火星のこと。太微(たいび)は北斗七星を中心とした北天を三つの領域に分けた
紫微垣(しびえん)・ 太微垣(たいびえん)・
天市垣(てんしえん)のうちのひとつ。
北斗七星の南の領域で、政府組織を表すという。
ここに火星があると軍が招集され、火星が抜けると軍が解散すると言われる。
※堂衆と学生(がくしょう)
堂衆とは、御堂に属して雑務を担当する下級僧侶。
学生は学徒、もしくは大衆とも呼ばれる修行僧のこと。