// 上書き御免(源平+遙か年表)年表3:1180〜1181 ※別窓表示はこちら

源平時期の年表に「遙かなる時空の中で3」の設定をまぜてみようという試み。
2006年1月23日から7月18日まで独自に推測・調査して更新していましたが、
2006年10月4日に『メモリアルブック 完全設定資料集』に年表が掲載されたため、
公式発表に基づいて修正をして、更新停止。正式発表万歳vvv 待ってました!

※年表の月日は旧暦、印は『メモリアルブック 完全設定資料集』による修正箇所です。学校の試験には使用禁止ですよ神子さまがた;;;

  年表1:〜1170 年表2:1171〜1179 年表3:1180〜1181

西暦
年号
月日
できごと (清和源氏 桓武平氏 熊野関係 ほか 網掛けは遙か設定






1180

治承4

01.09
リズヴァーン誕生 18

21

13

23

14

14

1月 平忠度、薩摩守 平重衝、蔵人頭
2月
平清盛、大輪田泊を修築
02.21
安徳天皇※践祚(せんそ) 摂政:近衛(藤原)基通 高倉院政開始
04.09
以仁王の令旨 全国の源氏に向けて平家追討を促す命令を下す「吾妻鏡」
4月
源義盛、行家を名乗り以仁王の令旨を持って諸国源氏を渡り歩く
4月
※敦盛さん病死
04.27
以仁王の令旨が行家によって伊豆の頼朝の元に届く「吾妻鏡」
04.29 京都に大辻風、近衛京極より錦小路に至る「百錬抄」人家・門戸・車等まで皆吹き上ぐ「明月記」
04.29
敦盛さん、怨霊として復活(上記の怪異と同時。竜巻(大辻風)の上には右回りの暗雲もあった)
5月
この頃に熊野本宮と新宮(速玉)の間で内戦(諸説あり)
05.15
以仁王の令旨が発覚、源氏追討令が出る
05.22
以仁王・源頼政、園城寺で挙兵。平家(大将知盛・副将忠度)と戦闘、園城寺焼失
05.23
以仁王・源頼政、南都興福寺へ向けて園城寺脱出
05.27 宇治橋の合戦 以仁王(30)・源頼政(76)敗死
06.02
平清盛による福原遷都 安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇も福原へ「玉葉」
07.14
後鳥羽天皇(尊成:たかひら)誕生(父・高倉上皇、母・藤原殖子)
8月中
湛増、弟の湛覚を討ち、鹿瀬以南を併合する「玉葉」

以降、遙かの湛快さんが熊野の反乱を収めた頃に相当
08.17
源頼朝、北条時政の邸にて挙兵
8月
遙かの頼朝、梶原母と朔を監視下に置く
08.19
平清盛、厳島神社に参詣、豊前(九州)宇佐神宮に向かう「玉葉」
08.23
石橋山の合戦 頼朝軍敗北
08.24
敗走する頼朝、土肥椙山(神奈川県湯河原町)の岩窟で梶原景時に救われる
同日
遙かの景時さんも、この時、頼朝に出会う
08.29
頼朝、安房(千葉県)に上陸、体勢を立て直しはじめる
09.05 頼朝追討の宣司が下る「玉葉」
09.07
源(木曽)義仲、信濃で挙兵「吾妻鏡」
09.10
源(武田)信義、甲斐で挙兵「吾妻鏡」
09.22
頼朝追討軍、福原を発つ(大将惟盛・副将忠度)
10.02
熊野の戦い長期化。湛増の邸が湛覚に攻められ死者多数。
10.06
頼朝、鎌倉に入る
10.20
富士川の合戦 平家追討軍は戦わずして撤退
10.21 源義経、奥州から駆けつけ、黄瀬川の陣で頼朝と対面
同日
遙かの九郎さんと弁慶さんもここで参戦。「源氏に与して5年」に相当
11.17
美濃・尾張の源氏が蜂起「吾妻鏡」
11.20
近江の源氏が蜂起、北陸道の物資を押さえる「玉葉」
11月
将臣くん、福原へ★  (京ではなく福原だったとは…確かにこの時期なら清盛は福原…)
11月
弁慶さん、入京。清盛の呪法(呪詛の種)に重ねて龍脈を止める呪法を始める
11月
龍脈が穢され、応龍は黒龍と白龍に分かれる。白龍、神子を探すために時空移動
11月
星の一族の菫姫が白龍とともに時空移動
11.24
京都へ還都。天皇・上皇・法皇が京都へ戻る(福原を出発、26日に京都到着)
11月
黒龍、朔のもとへ来る
12月
奥州の藤原秀衡が頼朝を討つとの流言が飛ぶ(清盛が仕組んだとの説あり)
12月 鎮西(九州)・肥後の菊池隆直、平氏に反して蜂起「歴代皇紀」
12.01
平知盛、近江源氏を討つ
12.04
平知盛、美濃源氏を討つ
12.11 南都大衆蜂起「玉葉」
12.12 頼朝、鎌倉の大蔵御所に入る
12.16
南都興福寺衆徒、出門「玉葉」
12.18
平清盛、後白河法皇の幽閉を解き、政務を執ることを願う
同日
南都興福寺衆徒、入洛の噂「玉葉」
12.28
平重衝、南都焼討。昼に戦闘。夜に松明の火が延焼し、東大寺・興福寺等焼失
12.29
平重衝、帰京
1181
































治承5


















01.14
高倉上皇没(21)
19
































22
































14
































24
































15
































15
































01.17
後白河法皇、院政再開始「百錬抄」
01.18
平宗盛、五畿内・近江・伊賀・伊勢・丹波諸国の惣管(臨時治安維持職。兵馬を徴発できる)となる
01.21
17日頃から熊野の僧徒、伊勢・志摩に乱入、度々合戦に及ぶ「玉葉」
1月
京中の人家を兵士の宿舎とし、兵士の乱行が頻発「百錬抄」

弁慶さんの手によって京の龍脈が止まる。黒龍と白龍消滅
02.15
この頃、鎮西(九州)謀反の輩(菊池ら?)大宰府を攻撃「玉葉」
02.17 この頃、熊野の僧徒、阿波国を襲う「玉葉」
02.29
原田種直、肥後の菊池隆直・豊後の緒方惟能らと合戦「吾妻鏡」
閏2.03
平清盛没(64)「玉葉」
同日
遙かの清盛、弁慶さんによって炎に焼かれ死亡
閏2.12
伊予の河野通清、兵士に反して挙兵「吾妻鏡」
閏2.15 望美、六波羅の平知盛邸に時空移動(えっ、重衡邸じゃないんです か?!)
閏2.15
平重衡、兵13,000余騎を率いて、美濃・尾張の境に着くべく出立「玉葉」
同日
遙かの重衡、墨俣の戦いの為に京を出立
閏2.25
後白河法皇、鳥羽殿より法住寺殿へ移る「玉葉」
閏2月
志田義広、頼朝に反して常陸国で挙兵「吾妻鏡」
3月
遙の清盛、怨霊として復活。八尺瓊勾玉、破損する
03.10
平重衡、通盛ら、尾張国墨俣河で源行家を破る「吾妻鏡」 義経の同母兄、義円死亡
03.25
夜半、平重衡帰京
04.14
平宗盛に菊池隆直追討の命が下る「吉記」
05.13
13日、14日甚雨洪水「玉葉」
6月
天下飢饉、餓死者その数を知らず「百錬抄」/天下飢饉、道路に餓死者充満「皇帝紀抄」
6月
越後の豪族・城長成が信濃に侵入、これを義仲が千曲川畔、横田河原で破る「吉記」
養和1











07.14
改元(治承→養和)飢饉、関東以下諸国謀反、客星北極に出現などの天変による
08.01
源頼朝が密かに平氏との和睦を法皇に申し入れるが平宗盛が拒絶する「玉葉」
08.03
平家郎党・平貞能(さだよし)を鎮西に派遣「玉葉」
08.14
源義仲追討のため、平通盛を北陸道に派遣「吉記」
08.15
藤原秀衡を陸奥守、平親房を越前守、城助職(すけもと)を越後守として源氏追討を命ずる「玉葉」
09.06
源義仲、越前国水津で平通盛を破る「百錬抄」
同日
熊野権別当湛増、源頼朝に応じて挙兵「玉葉」
09.07 和田義茂、下野国で足利利綱を破る「吾妻鏡」
09.27
平氏の命により、田口成良が伊予国の河野氏を討つ「吾妻鏡」
10.03
北陸道の平氏軍助けるため、平惟盛を派遣する「玉葉」
11.25
中宮・平徳子を建礼門院とする「玉葉」
12.04
皇嘉門院藤原聖子没(60)


 『メモリアルブック 完全設定資料集』発行により更新終了。


 ※践祚(せんそ)
    皇太子が皇位を継ぐこと。
    古くは即位と同義語だったが、この頃にはまず践祚し、後日即位式を行って即位していた。


 ※敦盛さん病死(?)
    清盛が三種の神器を手に出来るのは、1180年の安徳天皇即位後と思われる
    1181年閏2月には清盛が死亡してしまうので、1180年2月から1181年閏2月までの間に病死し、
    蘇ったのかなと推測。まったくもって推測です。情報熱烈募集!
    『メモリアルブック』発行により没月・復活日判明v